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福岡地方裁判所小倉支部 昭和58年(わ)405号 判決

主文

被告人A及び被告人Bをそれぞれ罰金一五万円に、被告人Cを罰金六万円に、被告人Dを罰金四万円に処する。

被告人らにおいてその罰金を完納することができないときは、金五〇〇〇円を一日に換算した期間、その被告人を労役場に留置する。

訴訟費用は、別紙訴訟費用負担目録記載のとおり各被告人の負担とする。

被告人らに対し、公職選挙法二五二条一項の選挙権及び被選挙権を有しない期間をいずれも三年に短縮する。

被告人らに対する本件公訴事実中法定外選挙運動文書頒布の点については、被告人らはいずれも無罪。

理由

(罪となるべき事実)

第一  被告人A及び同Bは、共謀の上、昭和五八年四月一〇日施行の福岡県知事選挙に立候補したEに当選を得させる目的で、同年三月二六日ころ、別表(一)記載のとおり、同表犯行場所欄記載の各場所において、右選挙の選挙人である同表被申込者欄記載の者に対し、右候補者のために、投票してもらうとともに、右Eを浄土真宗本願寺派において、同候補者として推薦した旨を各寺の門徒らに知らせるなどの選挙運動をしてもらうことを期待し、それに対する謝礼の趣旨を込めて、それぞれ現金五〇〇〇円を供与する旨の申込みをした

第二  被告人Cは、右福岡県知事選挙に立候補したEに当選を得させる目的で、同年三月二八日ころから同月末日までの間、別表(二)記載のとおり、同表犯行場所欄記載の各場所において、右選挙の選挙人である同表被申込者欄記載の者に対し、右候補者のために、投票してもらうとともに、前記の旨を各寺の門徒らに知らせるなどの選挙運動をしてもらうことを期待し、それに対する謝礼の趣旨を込めて、それぞれ現金五〇〇〇円を供与する旨の申込みをした

第三  被告人Dは、右福岡県知事選挙に立候補したEに当選を得させる目的で、同年三月三〇日ころあるいは同月三一日ころ、別表(三)記載のとおり、同表犯行場所欄記載の各場所において、右選挙の選挙人である同表被申込者欄記載の者に対し、右候補者のために、投票してもらうとともに、前記の旨を各寺の門徒らに知らせるなどの選挙運動をしてもらうことを期待し、それに対する謝礼の趣旨を込めて、それぞれ現金五〇〇〇円を供与する旨の申込みをした

ものである

(証拠の標目)《省略》

(判示事実に関する主張に対する判断)

一  被告人ら及び弁護人らは、本件の「お布施」あるいは「御法禮」(以下、一括して「お布施等」ともいう。)の配布は、次の点からして公職選挙法二二一条一項一号の金銭供与申込罪に該当しないと主張する。すなわち、第一に、被告人らは、「当選を得る目的」で金銭の「供与の申込」をしていない。お布施等は、選挙とは全く関係がなく、社会的儀礼として供えられたり手交されたりしたものであって、「当選を得る目的」をもった「供与の申込」行為は存在しない。第二に、右のように、お布施等は、住職等の選挙権の行使又は選挙運動に対する対価的報酬ではない。第三に、被告人らはいずれも、お布施等を選挙とは無関係に社会的儀礼として供え、手交したものであって、被告人らには、「供与申込」つまり買収の認識、故意はなかった。右のように主張する。

二  当裁判所の判断

本件では、お布施等の仏教的な解釈も問題となってはいるが、その教義上の意義等についての争いはさておき、お布施等の配布が公職選挙法二二一条一項一号の供与申込罪に該当するか否かが問題にされなければならない。

そこで検討するに、前記関係各証拠によると、被告人らが、別表(一)ないし(三)記載の各寺を訪問し、応対に出た各住職等に対し、浄土真宗本願寺派からのE候補に対する推薦書のコピー数十枚等在中の大型茶封筒を手渡すなどし、あわせて、その各寺訪問の機会に、封筒に入れられた現金五〇〇〇円のお布施等を、仏前に供え、あるいは右住職等に手渡すなどした(ただし、別表(二)の5の乙浜寺の乙浜四夫に対しては手渡そうとした)ことは明らかであるところ、右のような寺回りを組織として受け入れ実行に移したのは、福岡県知事選挙においてE候補の選挙運動をしていた門司地区労あるいは行橋地区労の関係者であり、被告人らは、右各地区労の関係者から、右寺回りを依頼されてこれに応じたものであること、右寺回りの目的は、E候補が昭和五八年三月中旬浄土真宗本願寺派から推薦を受けたので、同派所属の各末寺の住職等にその推薦事実を知らせるとともに、その事実を記載した推薦書のコピー数十枚等を各寺に配布して、右各住職等に対し、E候補への支援を要請するとともに、右各住職等からその門徒らにも右推薦事実を周知させてもらい、選挙を有利に進めたいというものであり、被告人らも、右目的を十分認識して、右各地区労の関係者から指示されたとおりに寺回りをしていること、したがって、被告人らの寺回りは、E候補の選挙運動をしていた右各地区労の関係者によって組織的に受け入れられ、そのとおり実行されたものということができるところ、被告人らが右寺回りの機会に仏前に供えるなどしたお布施等も、右各地区労の関係者においてあらかじめ用意し、被告人らに持参させたものであり、被告人ら自身において用意したものではなく、お布施等の袋に記載された差出人の名義も、右寺回りをした被告人らの名義ではなく、E候補の選挙運動の推進団体である「清潔な県民本位の県政をつくる会」の名義となっていること、したがって、被告人らの寺回りの機会におけるお布施等の配布も、寺回りと同様、E候補の選挙運動をしていた右各地区労の関係者によって組織的に採用され、寺回りをしたところに対し一律に行われているといえることなどが認められ、これらの事実を総合すると、被告人らが、訪問した各寺の仏前にお布施等を供えるなどしたのは、一応宗教的あるいは社会的儀礼の形式をとってはいるけれども、単にその趣旨にとどまるものと解することはできず、被告人らとしては、訪問した各寺の住職等が、E候補を支援し、前記推薦書のコピーを門徒らに頒布するなどしてE候補のための選挙運動をしてくれることを期待し、それに対する謝礼の趣旨をも込めて、したものであり、かつ、お布施等の一か寺あたりの金額が五〇〇〇円であっても、その供与(申込)には、各寺の住職等に前述の選挙運動等をしてもらうことに対する対価性があったことを否定することはできず、これを認めるのが相当である。

したがって、被告人ら及び弁護人らの前記主張を採用することはできず、判示のとおり認定した次第である。

(法令の適用)

被告人A及び同Bの判示第一の別表(一)番号1ないし17の各所為はいずれも刑法六〇条、公職選挙法二二一条一項一号に、被告人Cの判示第二の別表(二)番号1ないし6の各所為及び被告人Dの判示第三の別表(三)番号1ないし4の各所為はいずれも同法二二一条一項一号にそれぞれ該当するので、各所定刑中いずれも罰金刑を選択し、被告人A及び同Bの判示第一の別表(一)番号1ないし17の各罪、被告人Cの判示第二の別表(二)番号1ないし6の各罪、被告人Dの判示第三の別表(三)番号1ないし4の各罪は、いずれも刑法四五条前段の併合罪であるから、同法四八条二項により各罪所定の罰金の合算額の範囲内で、被告人A及び同Bをいずれも罰金一五万円に、被告人Cを罰金六万円に、被告人Dを罰金四万円に処し、被告人らにおいてその罰金を完納することができないときには、同法一八条により金五〇〇〇円を一日に換算した期間その被告人を労役場に留置することとし、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項本文、一八二条により、別紙訴訟費用負担目録記載のとおり、被告人らに負担させることとし、被告人らに対し、公職選挙法二五二条四項を適用して、同条一項の選挙権及び被選挙権を有しない期間をいずれも三年に短縮する。

(公訴権濫用の主張について)

弁護人らは、本件は、E革新県政に打撃を与えるという政治的意図から、違法不当な捜査が行われ公訴提起されるに至った政治的弾圧事件であり、公訴権濫用の場合に該当するので、公訴棄却されるべきであると主張する。

ところで、刑事訴訟法上、検察官は公訴を提起するか否かの広範な裁量権を有するが、右裁量権の行使については種々の考慮事項が列挙され(同法二四八条)、公益の代表者として公訴権を行使すべきものとされていること(検察庁法四条)、刑事訴訟法上の権限は公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ誠実にこれを行使すべく濫用にわたってはならないものとされていること(刑事訴訟法一条、刑事訴訟規則一条二項)などを総合すると、たとえば、公訴の提起自体が職務犯罪を構成するようの極限的な場合に限っては、公訴の提起を無効とすべき場合が存するものと考えられる。

そこで、本件についてみるに、被告人らの当公判廷における各供述によると、捜査の段階で不相当な点があったのではないかとの疑いをもたれなくもない事情(たとえば、捜査機関のマスコミに対する情報伝達の関係等)が窺われ、また、法定外選挙運動文書頒布の点ではいずれの被告人についても無罪であること後述のとおりではあるが、金員の供与申込の点は有罪であり、しかもその犯行態様は決して軽微なものとは言い難いものであるから、検察官の公訴提起が著しく不当であるということはできず、これを無効とすべき極限的な場合でないことは明らかである。

よって、弁護人らの主張は採用しない。

(本件公訴事実中法定外選挙運動文書頒布の点の無罪理由)

一  被告人らに対する本件公訴事実中法定外選挙運動文書頒布の点の要旨は、次のとおりである。

1  被告人A及び同Bは、共謀の上、昭和五八年四月一〇日施行の福岡県知事選挙に立候補したEに当選を得させる目的で、同年三月二六日ころ、別表(一)記載の各犯行場所において、同表記載の甲野一郎ほか一六名に対し、「このたびは、貴浄土真宗本願寺派より別紙のとおり、福岡県知事にEを推す旨の推せん書をいただき感謝いたしております。」「どうかご住職におかれては、貴寺の門徒のかたがたはじめ各界各方面へよろしくご風声下さるなど、特段のご配慮をたまわり、Eを強くご支援下さいますようにお願い申し上げます。」などと記載した「清潔な県民本位の県政をつくる会」丙浜二彦・丙谷三彦名義の挨拶状を数十枚ずつ手渡すなどして配布し、もって法定外選挙運動文書を頒布した。

2  被告人Aは、前記福岡県知事選挙に立候補したEに当選を得させる目的で、同年三月二八日ころから同月末日ころまでの間、別表(二)記載の各犯行場所において、同表記載の乙野九郎ほか五名に対し、前同様の挨拶状を数十枚ずつ手渡すなどして配布し、もって法定外選挙運動文書を頒布した。

3  被告人Dは、前記福岡県知事選挙に立候補したEに当選を得させる目的で、同年三月二九日ころから同月三一日ころまでの間、別表(三)記載の番号3を除く各犯行場所において、丙野六雄、丙山七雄及び丙丘九雄に対し、前同様の挨拶状を数十枚ずつ手渡すなどして配布し、もって法定外選挙運動文書を頒布した。

二  これに対して、被告人ら及び弁護人らは、被告人らが、福岡県知事選挙に当りEを浄土真宗本願寺派より推薦する旨記載された同派総長丙島四彦作成名義の推薦書のコピー(以下、単に「推薦書」という。)多数枚の入れられた大型茶封筒を頒布したことは認めるものの(ただし、乙浜寺関係を除く。)、その大型茶封筒の中に公訴事実記載の挨拶状(以下、「挨拶状」という。)が在中していたことは知らなかった旨述べ、更に個々の事実について次のように主張、弁解している。

1  被告人A及び同Bについて

まず、被告人Aにおいては、「本願寺から推薦状が来ているから推薦のあったことを寺回りをして知らせて欲しい」旨門司地区労から依頼を受けて、昭和五八年三月二六日午前、同事務所に赴いたところ、同様の依頼を受けていた被告人Bと出合わせた。そして被告人両名は、同地区労の者から、すでに用意されていたお布施と大型茶封筒それぞれ二一個を渡され、寺のリストと地図に従ってそれらを配布してもらいたいとの指示を受けた。その際、被告人Aは、大型茶封筒には、かねて見て知っていた推薦書が五〇枚入っていると説明を受けたので、法定外選挙運動文書の規制に違反するといったことは毛頭考えなかった。また、被告人Bも、このことで選挙期間中の一日をつぶされることにはなるが、社会党との共闘の行動の一つとして軽い気持ちで右指示に従ったにすぎず、大型茶封筒にはすでに目にしていた推薦書が在中していると説明を受けていたので、そのとおりであると何ら疑いも持たなかった。そして、被告人両名は、寺回りをして右大型茶封筒を配布したが、一日で二一か寺もの寺を回る必要から、住職等に対して挨拶後名刺を出して自己紹介し、大型茶封筒から推薦書一枚を取り出して示し、「門徒の方に推薦があったことを、お知らせいただければ幸せです。」と言ってその大型茶封筒をそのまま渡し、御仏前に参拝するというワンパターンの手順で次々と各寺を回ったにすぎないので、その間、大型茶封筒の中身等に注意を払っている余裕もなく、挨拶状が在中しているとの認識を有するに至る機会もなかった。

2  被告人Cについて

同被告人は、行橋地区労から、E候補が浄土真宗本願寺派の推薦を受けたので、地区労の方で各末寺にお礼の挨拶回りをするが、その案内をしてもらいたい、との依頼を受け、昭和五八年三月二八日午後五時過ぎころから、同地区労の丙林五彦を、別表(二)記載の、乙丘寺を除く五か寺に案内して回り、更に、同月三〇日、同地区労の氏名不詳者を乙丘寺に案内した。訪問した各寺では、同被告人が、寺側の応対者に右地区労の者を紹介し、地区労の者が、地区労であらかじめ用意していた茶封筒に入れられた書類の中から推薦書を一枚取り出して見せながら、右茶封筒に入れられた書類とともに寺側の応対者に渡し(ただし、乙浜寺では、住職乙浜四夫が受け取らなかったので持ち帰った。)、同被告人が、地区労で用意していた御法禮と書かれた不祝儀袋を、乙浜寺を除く各寺の応対者に渡したに過ぎない。したがって、同被告人は、右茶封筒の中身は推薦書だけと思っており、挨拶状が入っていることは全く知らなかった。

3  被告人Dについて

同被告人は、行橋地区労から、E候補が浄土真宗本願寺派の推薦を受けたので各末寺にお礼の挨拶回りをしてもらいたいとの依頼を受け、同地区労へ赴いたところ、地区労側で用意していた五個の大型茶封筒を差し出され、これには推薦書が五〇枚入っている旨の説明を受けたので、それらには推薦書しか入っていないものと考え、各末寺に挨拶回りをした際、右大型茶封筒をそのまま頒布したにすぎず、右大型茶封筒に挨拶状が在中しているとの認識はなかった。

それぞれ要旨以上のように主張、弁解する。

三  検察官は、被告人らの右の如き主張に対し、次のとおり反論する。

1  被告人四名について

犯行当時に多数の挨拶状は、多数の推薦書とともに二つ折りにして封のされていない大型茶封筒に入れられており、被告人らは、右封筒を携行して各寺を訪問し、大半の寺では右封筒ごと住職らに手交したのであるから、挨拶状は封筒の口から容易に判別できたものと推認される。被告人らの主張によれば、E候補が浄土真宗本願寺派から推薦されたことを知らせるためのみで寺を訪問したというのであるが、そうであれば右封筒に多数の文書が入っていること自体が不自然である。右E推薦を単に通知することあるいは右封筒の頒布を機械的に行うような場合はともかく、被告人らの経歴、地位等からして被告人らが単に機械的作業を行ったものでないことは明白であって、自己の携行する封筒内の文書を全く確認もせずにその頒布を被申込者に依頼することは到底考えられないものである。文書の内容を確認していない場合には各寺で住職らとの応対に窮し、あるいはその後の問合わせに窮してしまう場合があり得ることは事前に明確に予測し得る上、現職の市議会議員で選挙運動の経験豊富な被告人らが選挙運動期間中に封筒入りの多数の文書を頒布するに際し、封筒内の文書の内容及び頒布の適法性の有無を事前に検討していないということは考えられない。

なお、被告人らもその内容を認識している推薦書は浄土真宗本願寺派総長名義のものであって、これらのみを同宗派の意思決定とは何ら関係の認められない被告人らが各寺に配付して回る行為は極めて不自然と言わざるを得ない。

したがって、被告人らが大型茶封筒内に挨拶状が入っていることを知らなかったという主張は合理的ではない。

2  被告人A及び同Bについて

(一) 被告人A及び同Bは、乙村寺を訪問した際、応対に出た同寺手伝人丙森ハナに対し「園長に渡して下さい。」と言って大型茶封筒を手交したのみで退去しているし、甲川寺及び乙梅寺を訪問した際は、寺の者が全員留守であると思って大型茶封筒及び被告人両名の名刺を寺に置いて退去しているが、数十枚の推薦書だけ右大型茶封筒に入っていたのでは被告人両名が寺を訪れた趣旨を住職に伝えることができない。被告人両名には大型茶封筒の中に推薦書とともに挨拶状が存在していることを知っていたからこそ大型茶封筒を寺の手伝人に手交したのみで退去し、あるいは住職らの留守の寺に置いたのみで退去したものであることが容易に推認できる。

(二) 乙竹寺坊守乙竹梅子は「A被告人は、大型茶封筒の上に推薦書と挨拶状各一枚を載せて私に差し出した。」旨、乙森寺住職乙森八夫は「A被告人は私の父乙森一彦宛の小型封筒から推薦書と挨拶状各一枚を取り出して私に手渡した。」旨、甲浜寺坊守甲浜夏子は「B被告人は、二つ折りした多数の文書を私に手渡してくれたが、その文書は推薦書と挨拶状であることがその場ですぐに判った。」旨公判廷でそれぞれ供述しており、被告人A及び同B両名が挨拶状の存在を認識して推薦書とともに住職らに頒布したことは明らかである。

3  被告人Cについて

乙浜寺住職乙浜四夫は、公判廷で「C被告人は、持っていた大型茶封筒の中から小型封筒を取り出し、その中に入っていた推薦書と挨拶状各一枚を取り出して私に差し出した。」旨供述しており、取調べ済みの乙野寺住職乙野九郎の検察官に対する供述調書では同人は「C被告人から見せられた書類には推薦書のほかに挨拶状があった。その挨拶状を見ていると同被告人は、同じものが封筒の中にたくさん入っていると言った。」旨供述しており、被告人Cが挨拶状の存在を認識して推薦書とともに住職に頒布したことを十分に認定し得る。

4  被告人Dについて

丙丘寺住職丙丘九雄は、公判廷で「D被告人は、大型茶封筒のほか中型封筒を差し出し、Eさんのプロフィールですと言ったので、同被告人の目の前でその中型封筒の中の文書を取り出して見たら住職宛の挨拶状であった。」旨供述しているほか、被告人Dが丙山寺に交付した宛各書きのない大型封筒(押第二五一号の5)の中には「丙山寺住職様」と宛名書きされた中型封筒一通(同押号の6、推薦書及び挨拶状各一枚入り)が入っていて、これが宛名書きどおりの丙山寺に交付されていること、被告人Dは、第六八回公判で「大型茶封筒の中にはいろいろの文書が入っていると思っていた。」旨供述していることを総合すると、被告人Dが挨拶状の存在を認識して推薦書とともに住職に頒布したことを十分に認定し得る。

以上のとおり反論する。

四  そこで、以下順次考察するに、被告人らが右大型茶封筒の中に挨拶状が在中していたことを知り得る可能性は、検察官所論の各被告人の寺における言動、すなわち、挨拶状を取り出して住職らに示したという点を除くと、右所論のうちの「被告人四名について」と題する箇所に掲記された事実に尽きるものと考えられるが、右はいずれも、その事実から直ちに挨拶状の存在についての知情が証明されるという直接証拠ではなく、間接証拠である。したがって、先ず検察官所論の右各事実を認めることができるか、そして、その事実から知情の点を推認し得るか否か、次いで、直接証拠である被告人ら個々の言動に関し検討する。

前記関係各証拠によると、

1  被告人A及び同Bは、昭和五八年三月二五日ころ、門司地区労から、北九州市門司区内の浄土真宗本願寺派所属の二一か寺(別表(一)記載の一七か寺を含む。)を、被告人Cは、同じそのころ、行橋地区労から行橋市所在の同派所属の寺を、被告人Dは、同月末ころ、同地区労から被告人Cと相談の上、同市所在の右所属の寺を、いずれも、E候補が同派から推薦を受けたので、その挨拶のため回るように依頼され、右依頼に応じたこと

2  被告人A及び同Bの両名は、同月二六日午前、門司地区労に赴き、同所で、各寺に持参するものとして、推薦書と挨拶状各数十枚等の入った大型茶封筒二一か寺分(ただし、右被告人両名が、挨拶状の在中していることを認識していたかどうかの点はしばらく措く。)及びお布施二一か寺分を受け取り、被告人Aの運転する乗用車で寺回りに出発したこと、右被告人両名は、同日の午前から夕刻までに、予定の二一か寺を訪問したが、訪問先の各寺においては、ほぼ同様の行動を繰り返していること

3  被告人Cは、昭和五八年三月末ころ、行橋地区労の者と共に、別表(二)記載の六か寺を回ったこと、各寺に持参した、推薦書と挨拶状各数十枚等の入れられた大型茶封筒(ただし、同被告人が、挨拶状の在中していることを認識していたかどうかの点はしばらく措く。)及び御法禮は、行橋地区労の方で用意しており、同被告人は、寺回りを始めるに当り、そのうち御法禮のみを預かったが、少なくとも数か寺において右大型茶封筒を住職らに渡したのは同被告人であると思われること

4  被告人Dは、昭和五八年三月末ころ、別表(三)記載の四か寺を回ったこと、各寺に持参した、推薦書と挨拶状各数十枚等の入れられた大型茶封筒(ただし、同被告人が、挨拶状の在中していることを認識していたかどうかの点はしばらく措く。)及び御法禮は、行橋地区労の方で用意したものであること

5  そして、いずれの場合も、右大型茶封筒は封が施されておらず、本件起訴にかかる各寺では例外なく、これを住職らに渡していること(被告人C関係の乙浜寺についての判断は後記のとおり。)

6  被告人Aは、昭和二二年に社会党に入党し、同三〇年に当時の福岡県門司市の市議会議員に当選し、以後同市議会議員及び五市合併後の北九州市議会議員に連続当選している者であり、門司地区労事務局長、同議長といった役職に就いたこともあること、被告人Bは、昭和二二年に共産党に入党し、同三〇年に共産党から初めて門司市議会議員に当選し、以後一期を除いて、同市議会議員及び北九州市議会議員に連続当選している者であり、門司地区労副議長の職に就いたこともあること、右被告人両名は、その活動の拠点を北九州市門司区においていること、被告人Cは昭和四六年、福岡県行橋市の市議会議員に初当選し、以後連続当選しており、その間同五四年に社会党に入党して行橋市を中心に政治活動を続け、同市では有力な政治家であり、社会党に属するものであること、被告人Dは、昭和三六年共産党に入党し、同三八年福岡県行橋市の市議会議員に初当選し、以後、一期を除き連続当選しており、同市で活発な政治活動をして、地元の有力な政治家であること、本件知事選挙において、E候補は社会党及び共産党の統一候補として立候補したものであること、被告人らは右のような立場上、社会党及び共産党の革新統一候補たるE候補を立てた本件知事選挙に関心を持ち、その関係での選挙活動もそれなりにしていたと窺われること

7  被告人らは、ほぼすべての訪問先の寺において、応対者に対し、右大型茶封筒から少なくとも推薦書を一枚取り出していること、各地区労で用意された大型茶封筒に納められた推薦書と挨拶状は同一のものであり、その各書面の数量は数十枚とほぼ同数であるが、その形状は異なっていること

以上の事実が認められる。

五  そこで、以上の事実に基づき考察を進める。

1  被告人らは、いずれも当該地域を地盤に持つ古参の市議会議員であり、前記経歴、地位等に鑑みると、その地域における革新陣営に重きを置く有力政治家であり、それなりの支持者を有することは明らかであり、それだけに、E候補の選挙運動の展開につき重要な地位にあったものと推認され、各地区労の指示するまま、浄土真宗本願寺派から推薦のあった事実を伝えるため、機械的に本件大型茶封筒を各寺に配布して回ったものとは通常考え難いところであり、既に判示した如く、本件寺回りは、同候補の選挙運動をしていた各地区労の関係者によって組織として実行に移されたものであるから、その実行決定の段階において、被告人らが関わりを持たなかったとは必ずしも断じ難く、その際、挨拶状の存在と配布の計画を知り得たはずであるとの疑いは否定し難いものがある。しかし、本件お布施等並びに挨拶状の名義人が、同候補の選挙運動の推進団体である「清潔な県民本位の県政をつくる会」であることに徴すると、右寺回りの企画及び立案並びに各地区労に対するその実行の要領及び指示が、同会によってなされたものであることは容意に推認し得るところである。してみると、各地区労においては、ただ実行者を誰にするかとの選定だけが残されていたのではないかとも疑われるところであり、被告人らが、自分らは地区労からの指示に従って寺回りをしただけであるとの趣旨の弁解も、あながち不自然とは言い難く、また、被告人らが知事選挙において、E候補を支援する北九州市門司区及び行橋地区を含む全体制の中でどのような地位を有していたのか、本件寺回りの発案、計画等の実行に、どのように参画していたのかを認定するに足りる証拠のない本件においては、有力な政治家であるという前記被告人らの経歴、地位等から、被告人らに、本件茶封筒の中に挨拶状が存在していることの認識があったと断ずるには躊躇せざるを得ない。

2  本件大型茶封筒の中には、形状を異にする挨拶状と推薦書各数十枚が在中し、封が施されていない。そうすると、被告人らが右茶封筒を手にした際、あるいはその中から推薦書を取り出した折その手触り、厚さ等から形状を異にする複数の文書の存在することを知り得る蓋然性が高く、そうであれば、被告人らは各地区労の関係者から推薦書が入っている旨聞いているのであるから、推薦書の外に如何なる種類の文書が存在するのか確めたくなるのが人情であり、また自然の成り行きと考えられ、そのためには、封筒の口から中を覗き、当該文書を取り出すという一挙手一投足の労をもって足りることであり、これらを総合考慮すると、被告人らが挨拶状の存在を知っていたとの疑いは強いものがある。しかし、被告人らは一旦選挙期間に入れば、地元における選挙運動の看板として、選挙対策事務局から指示されるまま、一つ一つの活動が計画された選挙運動全体の中で、どのような位置付け、意味合いを有するものかいちいち深く吟味する余地もなく、ただ次々と選挙関係の日程を消化していくだけであり、本件においては、推薦書が入っているので寺回りをして、推薦の事実を住職及び住職を介してその門徒に知らせ、E候補の支援を要請してもらいたい旨を各地区労の関係者から指示され、自分らはそれをそのまま実行すべき立場にあり、現にそのまま実行したに過ぎず、右茶封筒の中に推薦書と挨拶状が混在している等思いもしなかったし、注意を払う必要もなかった旨の被告人らの弁解も、絶対にあり得ないこととして、不自然であると一概に排斥できないものがある。加えて、被告人らに挨拶状存在の認識があったとした場合、寺回りの目的が右のようなものであった以上推薦書を呈示するのは当然だとしても、挨拶状を呈示してこそ、所期の目的を達成できる理であることは挨拶状の内容により明らかであるところ、後記のように、被告人らは、その回った寺の少なくとも過半数において、肝心なE候補支持要請の挨拶状を示すことなく、推薦書のみを呈示しているに過ぎないことは、甚だ理解し難い行動と言わなければならず、これらの疑いが存する以上、右大型茶封筒の形状等から被告人らに挨拶状の存在について認識があったと認定することは証拠法則に背馳するものと考えられる。

3  その余の、挨拶状の認識がなければ、訪問先の寺で住職との応対やその後の問合わせに窮するのではないかとの点、前記推薦の意思決定に無関係の被告人らが、それのみを寺に知らせて回るのは不自然であるとの点などは、被告人らの本件寺回りの目的が前示の如きものであった以上、困窮する筈はなく、特に不自然とも言い難い。

4  右の如く、間接事実をもっては、被告人らの挨拶状認識の点を証するに由なきものと言わざるを得ないので、次に個々言動について検討する。

六  被告人A及び同Bについて

1  前記関係各証拠によると、被告人両名は、甲野寺、甲山寺、甲谷寺、甲島寺、甲林寺、乙島寺、乙林寺及び乙上寺においては、住職ないし坊守等の寺族に対して推薦書を一枚示し、その後大型茶封筒を配布している過ぎないと認められる。したがって、右各寺では、被告人両名が主張するワンパターンの寺回りの形式がとられたものと認められるから、持参した書類の中に挨拶状が入っていることを知らなかったし知る機会もなかったとの被告人両名の弁解と抵触する点を見い出すことはできない。

2  乙松寺関係について

被告人両名が乙松寺を訪問した際、これに応対に出た住職乙松一雄の第三四回公判調書中の供述部分中には、被告人両名のうちどちらかが封筒を差し出したので、これを受け取り少し中を改めたとする部分が存するものの、同人は、第六七回公判において、挨拶状は被告人両名から見せてもらっていない旨供述していることから、同寺での被告人両名の言動に、被告人両名の前記弁解と抵触する点があったとは認められない。

3  乙本寺関係について

被告人両名が乙本寺を訪問した際、これに応対に出た坊守乙本秋子の第五五回公判調書中の供述部分中には、被告人両名のうちどちらかが茶封筒から推薦書と共に挨拶状を出したかのように述べる部分もあるが、結局右乙本は、その挨拶状を見ることは見たが、被告人両名が乙本寺を訪問した際に見たのか、それともその後に見たのか判らない旨証言しており、更に、同人は第六七回公判において、挨拶状を見た時期は判らない旨再度供述している。かかる同人の供述によると、被告人両名が乙本寺を訪問した際に、被告人両名が挨拶状を取り出すなどしたことは認めることはできず、同寺での被告人両名の言動からは、被告人両名の前記弁解と矛盾する点を見い出すことはできない。

4  甲丘寺関係について

被告人両名が甲丘寺を訪問した際、これに応対に出た坊守甲丘春子の第三三回公判調書中の供述部分によると、同人は、被告人両名が来たとき、何か選挙に関係があると思われる書類を見た記憶はあるが、そのときは法要で忙しかったので、よく見ておらず、その書類が封筒に入っていたかどうか、どういう経緯、状況でその書類を見たのか、といったこともよく覚えていないというのであり、一方で、その見た書類の大きさは、はっきりしないが、挨拶状(前同押号の9)くらいであったように思う、とも述べるけれども、同人の右供述中、書類を見た時期、経緯、状況、その書類の形状、内容等に関する部分は甚だあいまいであって、同人の右供述は、被告人両名の訪問終了後における経験事実との混同も疑われるところであるから、これをもって、被告人両名の前記弁解を否定することはできない。

5  乙竹寺関係について

被告人両名が乙竹寺を訪問した際、これに応対に出た坊守乙竹梅子の第一六回及び第一八回公判調書中の各供述部分によると、同人は、被告人Aが茶封筒の上に推薦書と挨拶状を各一枚ずつ二枚載せて差し出し、これと同じものが入っていますからと言ったので、それらを受け取ったが、そのまま、廊下の椅子の上に置いておいたと述べているが、第六七回公判において同人は、挨拶状については玄関で見せてもらったと思うが、記憶は定かではないと供述している。この供述の変遷について検討するに、最初の供述は本件後約一年八、九か月後の尋問に対してであり、後者の供述はその約二年九か月後の尋問に対してのものである点で徐々に記憶が薄らいでいっている事情が窺えるが、同人が右書類を渡した同寺住職乙竹二雄の第一六回及び第一八回公判調書中の各供述部分には、妻の右乙竹梅子から「玄関で、これ、中に、同じものが入っていますと言って出された。」と説明を受けて、推薦書及び挨拶状各一枚並びに茶封筒を受け取った、封筒の中身を確認しようとして出しかかったが、同じ物だとおもってすぐ中に入れた、右封筒は結局県民の会に返却したが、テレビの上に返し忘れて残っていた推薦書と挨拶状各一枚があったので、警察に出したとの供述部分が存し、現実に推薦書と挨拶状各一枚が当裁判所に押収されている(前同押号の8及び9)。したがって、右乙竹梅子の最初の供述は、右乙竹二雄の供述とよく合致しているところではあるが、それにしても、第六七回の同人の供述、すなわち、本件大型茶封筒の中に入っていた文書は推薦書だけではなかったのか、とか、挨拶状は一枚しか貰ってないのではないか、沢山あったのかなどと推薦書についてはかなり明確に供述するのに、挨拶状について漠然とした記憶に基づく供述に終始しており、右日時の経過を考慮に入れても、相距たることかなりのものがあり、乙竹梅子の両供述は全体として確実な記憶に基づく供述であると断定するのは相当とは考えられず、押収されている推薦書及び挨拶状は被告人両名が茶封筒の上に載せて差し出した物と同一であるとは限らず、更に、乙竹梅子の供述する乙竹寺での被告人Aの書類の差し出し方は、その他の多くの寺での同被告人の差し出し方とは異なっているところよりすると、挨拶状を見た時期の点に関しては乙竹梅子の供述をたやすく信用することはできず、これをもって、被告人両名の前記弁解を否定することはできない。

6  甲浜寺関係について

被告人両名が甲浜寺を訪問した際、これに応対に出た坊守甲浜夏子の第三七回公判調書中の供述部分中には、被告人両名のうち被告人Bが推薦書と挨拶状とを重ねてか別々にか差し出し、推薦書を開いて見せてくれた、挨拶状の方はちらっと見た程度だった、二種類の書類は三〇ないし四〇枚ずつあったとする部分が存する。そして、本件から約四年六か月の後に開廷された第六七回公判において、右甲浜夏子は、挨拶状を示された時期につき特に尋問された際にも、被告人Bが茶封筒ごと差し出すというのではなく、二つ折りにされた推薦書と挨拶状の束並びにあまり大きくないカラー写真を丸ごと出して差し出した、同被告人は、推薦書については説明したが、挨拶状及びカラー写真については格別説明していない、同人は、同被告人から見せられた推薦書について印象的であったし、挨拶状も二人の大学の先生の名前が印象的であった、これらの書類を受け取るときに、茶封筒を一緒に受け取ったかどうか記憶にないと供述している。同人の右供述は、第三七回公判においてと第六七回公判においてとでその内容に矛盾はなく、また被告人両名から挨拶状を差し出された際の供述内容も具体的かつ詳細である。

しかしながら、同人の供述は、推薦書及び挨拶状各数十枚等の書類を丸ごと渡された、しかし、その際渡されたものの中に茶封筒があったかどうか記憶にないというものであるが、これらの点は、被告人両名の他の寺での書類の渡し方とは大きく異なっており、特に、茶封筒を渡されたことにつき記憶がないとの点は、被告人らがこの甲浜寺だけ茶封筒を渡さなかったとは考えにくいことからして、不自然であり、右甲浜寺で書類を渡したのは、被告人Bであることを考慮に入れても、右甲浜夏子の供述をたやすく信用することはできないと考えられる。そして、同人は、推薦書や挨拶状各数十枚等の書類の束を、被告人Bから渡された際に見た旨供述するのであるが、一方でその際茶封筒のあったことについて記憶がなく、また、被告人らから、推薦書以外の書類について説明を受けた記憶がないということは、同人が右書類の束を見たのは、被告人両名が訪問して来たときのことではなく、被告人両名が帰って行った後(茶封筒の中から取り出してて見たとき)のことではなかったかとの疑いを払拭することができない。したがって、同人の右供述をもって、被告人両名の前記弁解を否定することはできない。

7  乙森寺関係について

被告人両名が乙森寺を訪問した際、これに応対に出た住職乙森八夫の第五四回公判調書中の供述分中には、被告人両名のうち被告人Aが同人に対して、よろしくお願いしますと言って推薦書を出して、更に、その後挨拶状も出した、同人は、そのときの挨拶状を見て文中に「祈」という文字があったので印象に残っていると供述する部分がある一方、挨拶状をそのとき確かに示されたといえるかについては定かでないとも供述する部分が存する。また、第六七回公判においては、右乙森八夫は、同様の供述をするととも、同人の父で元住職であった乙森一彦宛の白い封筒から挨拶状を出して見せられたと思うと供述するが、そのとき確かに挨拶状を見せられたかと念を押されて、はっきりとは言えないとも供述している。乙森八夫の右両供述は、全体としてあいまいな点が散見されるとともに、挨拶状が被告人Aから示されたという記憶は、挨拶状の文中の「祈」の文字が印象的であったこと、挨拶状はその後余り見ていないように思うこと、当時住職が乙森一彦から乙森八夫に代わっていたのに、乙森一彦宛の白い封筒から挨拶状を出されて示されたという記憶があることなどに立脚しているようであるが、果たして、被告人両名が訪問して来たときに挨拶状を見てその中に「祈」の文字のあることに気が付いたといえるか、その後に挨拶状を見た際、その点に気が付いたことと混同しているのではないかとの疑問があること、右白封筒と、示されたという挨拶状との関係が証拠上判然としないことなどを併せ考えると、その供述中、被告人Aが挨拶状を示したとの点の信用性には疑問が残り、右供述をもって、被告人両名の前記弁解を否定することはできない。

8  甲川寺及び乙村寺関係について

第二二回公判調書中の証人甲川三郎の供述部分、第二三回公判調書中の証人甲森六彦の供述部分及び被告人A、同Bの当公判廷における各供述によると、右被告人両名は、訪問した甲川寺では、寺の者が留守で誰も応対に出る者がいなかったので、同寺の玄関の式台の上に大型茶封筒を置き、被告人Aが自己の名刺の裏に訪問の趣旨を簡潔に記載し、それを被告人Bの名刺と共に右封筒の上に載せ、その後、同寺本堂にお参りをして同所の香炉台の上にお布施を置いて帰ったことが認められる。

また、第四二回及び第五九回公判調書中の証人丙森ハナの各供述部分、第四六回公判調書中の乙村松子の供述部分並びに被告人A、同Bの当公判廷における各供述によると、右被告人両名は、訪問した乙村寺では、応対に出た同寺お手伝いの丙森ハナに自己紹介をして住職への取次を頼んだところ、留守だと言われたので、訪問の趣旨を話し始めたが、右丙森から、自分は共産党は嫌いだなどと言われたため、それ以上話しても仕方がないと考えて、話を打切り、右丙森に対し、住職に渡してくれるよう依頼して大型茶封筒を渡すとともに、仏前に供えてくれるよう依頼してお布施を渡し、引き上げたことが認められる。

右各認定事実によると、右二か寺においては、被告人両名の訪問の趣旨が名刺の裏の記載あるいは口頭によっては寺側に十分には伝わらないのではないかとの疑問もあり、そのことから、被告人両名は、大型茶封筒の中に挨拶状が入っていることを知っていたのではないか、知っていたからこそ、その程度の伝え方で大型茶封筒とお布施を置いて行き、あるいはお手伝いに渡して行ったのではないか、との推測もできないわけではない。しかし、被告人両名が置いて行き、あるいは渡して行った大型茶封筒の中に挨拶状のあることを知らなかったと仮定しても、被告人両名は右封筒の中に推薦書が数十枚入っていることは知っており、かつ、被告人両名は右二か寺においてその場の状況に応じ前認定の程度のことはしているのであるから、被告人両名としては、自分らの訪問の趣旨が寺側に一応伝わるであろうと考えたとしても不自然ではなく、したがって、右二か寺における被告人両名の言動も、持参した書類の中に挨拶状が入っていることを知らなかったし知る機会もなかったとの被告人両名の弁解と矛盾するとはいえない。

9  乙梅寺関係について

第五四回及び第五五回公判調書中の証人乙梅三雄並びに被告人A、同Bの当公判廷における各供述によると、乙梅寺の住職乙梅三雄が昭和五八年三月二五、二六日ころの夕方外出先から帰宅してみると、台所のテーブルの上に推薦書と挨拶状等多数枚在中の大型茶封筒及び被告人A、同Bの名刺が置いており、それについて妻に尋ねても、同女も、どうしてそれがそこに置いてあるのか知らないということであったこと、被告人両名が右茶封筒を右の台所のテーブルに置いたとは考え難いが、誰が置いたものかは判明していないこと、しかし、同寺には、当時、右住職とその妻のほか、住職の養子と老齢の両親が同居しており、被告人両名が乙梅寺を訪問した際住職の右親が応対した可能性があること、もっとも、住職の両親は高齢等のため物忘れが激しく、右応対の有無を確かめることはできないことが認められ、加えて、被告人両名は、いずれも当公判廷において、寺を訪問した際応対者がなくて大型茶封筒等を置いて来たという寺は、甲川寺一か寺しかなかったとの記憶である旨供述していることを併せ考えると、被告人両名が乙梅寺を訪問した際、応対者がいたのではないかと窺われる。もっとも、その際被告人両名がどのような言動をしたかは証拠上不明のままであるが、被告人両名の前記弁解と抵触する点も見い出すことはできない。

七  被告人Cについて

1  前記関係各証拠によると、被告人C外一名は、寺回りをした六か寺のうちの四か寺である、乙山寺、乙川寺、乙丘寺及び乙谷寺では、応対に出た住職あるいは坊守に対し、推薦書一枚を示して大型茶封筒を渡してはいるが、挨拶状を取り出して示したり、挨拶状について何か説明したりした形跡はないことが認められる。したがって、被告人Aらが右四か寺を訪問した際の同被告人らの言動からは、持参した書類の中に挨拶状が入っていることを知らなかったし知る機会もなかったとの同被告人の弁解と抵触する点を見い出すことはできない。

2  乙浜寺関係について

被告人Cらは、乙浜寺を訪れた際、住職乙浜四夫と面会したが、同住職から「選挙には関わりたくない」旨厳しく拒絶されたため、書類在中の大型茶封筒の交付はできず、後に同寺の門徒である戊野七彦が右封筒を渡しに行った旨特に弁解するので検討するに、確かに証人戊野七彦は、概略「被告人Cが乙浜寺住職から断られたと聞いたので、これに代わって推薦書の入った封筒を同寺に持って行き、右乙浜四夫及び同人の父乙浜八彦に会って渡した」旨の証言をし、これは、被告人Cの弁解に沿うところではあるが、右証人は、被告人Cの知人であり、かつ共にE候補の支援活動をしていた者であってその地位、同被告人との関係からその信用性の判断には慎重を要する上、同証人に応対した乙浜八彦は、「右証人が来て紙切れをもらったが、封筒には入っておらず、推薦の話はせずに世間話をした程度であった、また、その際、乙浜四夫はいなかった。」旨証言して、右戊野証言を否定しており、また、第三六回公判調書中の証人乙浜四夫の供述部分においても、第六七回公判における同人の証言においても、同人は、封筒に入れられた書類を自分に手渡した相手は戊野七彦ではなく、被告人Cであり、その当時右戊野とは会っていないと一貫して供述しており、いかに日時が経過しているとしても、本件茶封筒を渡された人物を誤るとは考え難いうえ、乙浜四夫、乙浜八彦の両証人はことさら記憶に反して証言する必要もなく、このことからすると、右戊野証言及び同被告人の弁解は採用できない。

しかしながら、第三六回公判調書中の証人乙浜四夫の供述部分には、推薦書と共にもう一種類ちらしがあったが、それに目を通したのは、被告人Cらが訪問して来たときかその後かは分らないとの供述部分が存するし、第六七回公判の右乙浜四夫の供述では、被告人Cらが訪問して来ていたときに挨拶状を示されて見たような記憶はないと述べたり、示されて見た記憶があると述べたりして一貫せず、要するに、挨拶状を見た時期の点に関する乙浜四夫の供述は全体として一貫性がなく、特に、第六七回公判における供述は、両当事者の尋問に対しその都度供述内容を変化させており、信用することができない。したがって、同人の供述をもって、持参した書類の中に挨拶状が入っていることを知らなかったし知る機会もなかったとの被告人Cの弁解を否定することはできない。

3  乙野寺関係について

被告人Cらは、乙野寺を訪れ、住職乙野九郎と面会したが、そのときのことに関して、本件文書頒布時から一か月余りの後に作成された乙野九郎の検察官に対する供述調書には、被告人Cが乙野寺を訪問し、住職の乙野九郎に対して、「Eさんが本山から推薦された」旨告げて、大型茶封筒から、「乙野寺住職様」宛墨書された中型封筒を取り出して同人に手渡したところ、右乙野が中型封筒から推薦書と共に挨拶状を取り出してそれを見たので、同被告人が、「今住職が読まれた推薦書と同じものをこの封筒の中に沢山入れていますから一つよろくしくお願いします。」と言ったという部分がある。次に、本件から約二年の後に開廷された第二五回公判の調書中における証人乙野九郎の供述部分中には、被告人Cが、住職乙野九郎に対して、「今度の県知事選挙にEさんが出ます。本願寺から推薦状もいただいておりますから。」と述べた後、大型茶封筒から推薦書を一枚取り出して見せるとともに、長い手紙状の書面一枚も出して見せたという供述部分が存する。更に、本件から約四年六か月後に開廷された第六七回公判では、証人乙野九郎は、被告人Cが来たときは珍しさも手伝って推薦書に目を取られたが、そのとき挨拶状も見たかどうか分からない、その日の内に封筒から挨拶状一枚を取り出して見たことは間違いないが、それがどの段階であったか、被告人Cがその場にいたときのことであったかについては記憶がはっきりしないと供述している。

そこで、乙野九郎の右三回の供述を併せ検討すると、被告人Cは、乙野寺において、挨拶状を取り出したのかどうか、乙野寺の住職乙野九郎は、同被告人の目の前で挨拶状を見たのかどうかは甚だあいまいであって、挨拶状を見た時期、状況の点に関する右乙野の各供述は、被告人Cの訪問終了後における経験事実との混同も疑われるところであるから、同人の右各供述をもって、被告人Cの前記弁解を否定することはできない。

八  被告人Dについて

1  前記関係各証拠によると、同被告人は、寺回りをした四か寺のうちの三か寺である、丙野寺、丙山寺及び丙川寺では、応対に出た住職らに対し、右大型茶封筒を渡してはいるが、挨拶状を取り出して示したり挨拶状について何か説明したりした形跡はないことが認められる。したがって、同被告人が右三か寺を訪問した際の同被告人の言動からは、持参した書類の中に挨拶状が入っていることを知らなかったし知る機会もなかったとの同被告人の弁解と抵触する点を見い出すことはできない。

2  丙丘寺関係について

被告人Dは、丙丘寺を訪れ、住職丙丘九雄と面会したが、そのときのことに関して、第二四回及び第三五回公判調書中の証人丙丘九雄の各供述部分によると、同証人は、被告人Dが書類の入った大型茶封筒を持ってきた、そのとき、その中にあった推薦書は見たが、挨拶状については、その封筒の中に入っているのを外から見ただけで、封筒の中から取り出した記憶はなく、それについての説明もなかったと思う旨供述しているが、右証言時より二年以上経過した第六七回公判においては、同証人は、同被告人が大きい封筒と「丙丘寺様」と書いてある小さい封筒を差し出したので、推薦書を一枚取り出してみるとともに、封筒の中に挨拶状様の書面が入っているのをちらっと見た、そして、そのとき同証人が、その書類について同被告人に尋ねたところ、同被告人が「Eさんのプロフィールです。」と言ったなどと供述している。

しかし、丙丘九雄の第六七回公判における右供述中、被告人Dが挨拶状様の書類について「Eさんのプロフィールです。」と言ったとの点は、その供述内容自体変遷があってあいまいなところがあるし、右供述時より二年以上前の第二四回及び第三五回公判における同人の供述とはやや矛盾するものでもあるから、たやすく信用することはできず、右の点は、丙丘九雄が、被告人Dの帰った後挨拶状を見て「プロフィール」と認識したのと混同してしまっている可能性もないではない。したがって、同人の供述を持って、持参した書類の中に挨拶状が入っていることを知らなかったし知る機会もなかったとの被告人Dの弁解を否定することはできない。また同被告人は、第六七回公判において、証人丙丘九雄に対して、「いろいろ入っておるから、お寺が差し支えない場合はこれを活用してくださいというふうな、そういう意味のことで、中身の説明は一切しなかったと思うのですが」と尋問し、そのことについて第六八回公判での被告人質問で、「一般的にいろんなものが入っていると思った、かなり書類が厚いということで言った」旨弁解しており、その点、些か不自然な供述ではあるが、右の供述は挨拶状の認識について自白したという内容ではなく、大型茶封筒に数種類の書類が入っていることは分かっていたことを認めているにすぎず、このことをもって直ちに挨拶状の認識があったと断定することはできない。

九  以上検討してきたとおり、日時の経過と共に人の記憶は薄れてゆくものであり、事件当時から約一年九か月以上過ぎ去った段階で供述することとなった前記の証人らの記憶が不鮮明なものであることは止むを得ないことではあるが、被告人らが挨拶状を取り出して示したと証言する証人らの記憶は、極めてあいまいなものがあると言わざるを得ない。確かに、乙竹梅子の、被告人Aが挨拶状を取り出して見せてくれた旨の供述のほか、被告人らに挨拶状存在の認識があったのではないかと疑わせるその余の証人らの供述がないわけではないが、既述のとおり、挨拶状の趣旨は、住職にE候補の支援を要請した文書であって、同候補の支援を訴えるための被告人らの寺回りの目的とまさに合致するもので、この文書の配布があってこそ、寺回りの本旨が達成できるとも言うべき中心的な重要文書である。それにも拘わらず、右乙竹供述あるいは乙野供述等の如く数か寺で挨拶状を呈示したとするなら、何故他の多くの寺で推薦書のみを示したに止まったのか、前記の数か寺で特に挨拶状を示さなければならなかった等の特段の理由が認められない本件においては、全く不可解というほかはない。加えて、被告人Aのみではあるが、被告人質問において、挨拶状が違法な法定外文書であることを認めており、この認識は他の被告人らも同様であると思われるが、豊富な選挙運動歴を有する被告人らであってみれば、挨拶状在中の認識ありとした場合、公職選挙法に違反することを懸念し、全く呈示しないか、あるいは前記目的と相俟って、違反を承知のうえ、訪問した各寺で例外なく呈示するかの何れかであり、区々に分かれることはないであろうと思料され、かかる点からも、被告人らが挨拶状を取り出して示した旨の前記各供述は容易に信用し難いものがあると言わざるを得ない。

してみると、直接証拠によって認め得る被告人らの言動をもってしても、挨拶状認識の点を証するには足りないと言うほかはない。

一〇  以上のとおり、被告人らは、持参した書類の中に挨拶状が入っていることを知っていたのではないかと強く疑われるところではあるが、入っていることを知らなかったし知る機会もなかったとの被告人らの弁解を完全に否定するまでの立証がなされたというには至っておらず、他にこれを認めるに足りる証拠もない。したがって、被告人らが挨拶状についての認識を有していたと認めることはできず、被告人らに対する本件公訴事実中法定外選挙運動文書頒布の点については犯罪の証明がないことになるから、刑事訴訟法三三六条により、被告人らに対しこの点につき無罪の言渡しをする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 桑原昭熙 裁判官 濱﨑裕 川口泰司)

〈以下省略〉

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